第八回;報告&補足
- 2015/04/26
- 00:05
奄美シマウタ研究会 プログラム アーカイヴ
2015/3/11(水)18:30~21:00@法政大学BT0805教室
『民謡大観』第II部「儀礼・行事・祝い」より <正月の年祝いと祝い歌>
旧正月(今年は2/19)の頃、沖縄、奄美の知人から年賀状などいただくと、旧正未だ健在なり、と感ずる。この時期には「節田まんかい」をはじめ旧正月のあしび(歌・踊りを楽しむ機会)や行事が、奄美各地でおこなわれている。第7~8回は、正月に盛大におこなわれる年祝いと祝い歌をとりあげる。
年祝い(沖縄では生年祝い)とは、生まれ年のエトが一巡する数えの13、25、37、49、61、73、85、97歳の最初のトシビ(エトの日)に、生命力の増強を願って行う祝い。トシ日は、肉体に宿る霊魂が最も不安定な状況におかれる日[松山光秀]とされる。
初めてのエトの年にあたる13歳は、女子はかつては生家での最後の祝いであるとして、晴れ着とサンゴンで盛大に祝った。61歳(還暦)からは長寿を祝うが、平均寿命が延びた近年では、73歳(古稀)以降が盛大である。エトのサイクル以外では88歳(米寿)を8月8日に、99歳を9月9日におこなっている。
本土の長寿祝いは一般に、還暦(60歳)、古稀(70歳)、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、卒寿(90歳)、白寿(99歳)とされるが、奄美では12年周期のエトのサイクルが基本にある。
*表記例;歌唱形式(実際のうたわれ方)はabcd・・・ハヤシ詞(ことば)。abcdは各々歌詞の第1、2、3、4句をあらわす。/《 》は曲名。
II-5 奄美大島の正月行事と徳之島の祝い歌・年祝い
1.奄美大島の正月行事補足;旧正月の現地レポートを交えて。
①正月行事概観;名瀬根瀬部(ねせぶ)など、恵原義盛・義之さんの二代にわたる調査から。
島尾[1966]があげる正月の行事習俗のうち、恵原[1973]に言及のないものについて、恵原義之さんの古老からの聞き取りによれば(資料配付)、トシトリとは、かつては正月に一つ歳を取ったことで、正月のサンゴンの席で年齢順に並んでいる子供たちに一人一人自分の歳と抱負・心情を述べさせた。あるいは大晦日にトシトリ餅を食すること。セクノイワイは「七日節句」のこと(徳之島では二日の「大工の祝い」をさす)。ヒキャゲとは、正月の終わりに飾り餅を下げて小さく刻み、練った芋にねりあわせて食すこと、カメサレとは不詳だが、瓶の酒をさらって飲み干す、一種の打ち上げのようなものではないか、またトシワスレとは年末の青年たちの忘年会をいうが、もっと別の習俗があったかもしれない。
なお関玲子さんの生まれジマ・笠利町用の正月行事素描(添付)によれば、年末の豚の屠殺、大掃除(庭に白砂を敷き詰める)、大晦日のトシトリ餅、豚骨野菜料理、明けて元旦の若水汲み、墓参、サンゴン、年始、シュンカネクヮ、歌あしび、七日雑炊、小正月のナリムチと16日の墓参などが、ていねいにおこなわれていた。
②映像 サンゴン(三献);15/2/19@ばしゃ山民俗村。恵原さん提供ビデオ(rec.久野末勝氏) 床飾り、ナンコの台~干支の口上~一の椀(餅など)~刺身(海のもの)~二の椀(肉など山のもの)、盛塩(むいしゆ)(するめと昆布を塩にまぶしていただく)、盃事と挨拶。
③映像 ナンカンジョセ(七草雑炊);数え7歳の子が、七軒の家をまわって雑炊をいただき成長を願う。89小川学夫・柴田南雄 Etv8「いまに残る民謡の原像 ① 奄美島歌考」より、笠利町佐仁 泊忠重《朝花》《行きゅんにゃ加那》《六調》
④旧正月ぅわんふね(豚骨料理)ツアー報告;末岡三穂子さん
年越しに欠かせない料理で、根瀬部では正月前の共同作業としておこなわれた。大和村国直のNPO法人TAMASU(タマス=取り分、利益の均等配分の意味)が、今年初めてツアーを開催。傾斜地に自生するツバシャ(つわぶき)採取から始まり、清水でさらしてアク抜きし、筋をとって豚骨・大根と一緒に煮込み美しい仕上がり。根瀬部では清流に各家のチバサ(ツバシャ)を入れたザルが並び、早く来た人ほど上流に置いてきれいな水にさらしたという。
⑤年祝い;旧正月前後は同級生のつどいが盛んで、例えば笠利では、今年は2/19が旧正月にあたるため、2/20(金)に「笠利中・還暦祝い」と「赤木名中・古稀の祝い」、翌21(土)は、「笠利中・古稀の祝い」と「赤木名中・還暦の祝い」があった(関さんによる)。
2.徳之島の祝い歌;民謡大観掲載曲より
・《まんかい玉》 ♪abc<ハ>d c<ハ>d
由来不明の古謡で、祝い付け、三十三年忌、正月、《口説》のシメにうたわれ、多彩な性格を持つ。音源は聞けなかったが、映像には登場。いずれじっくり聴いてみたい。
・《正月歌》(井之川、浅間) ♪abcdヨンノcdヨンノ スラヨイヨイ
*ヨンナ系ハヤシ詞・下句反復の、儀礼的な祝付け系統に近い形式。
・《井之朝花》(井之川のシマ朝花) ♪abcd
徳之島の朝花は8886音の琉歌調4句体定型詞をうたう。井之川では祝い付けとして、儀礼の開始にうたわれる。
3.徳之島の年祝い;酒井映像資料
祝いでは一族近隣を招き、徹底して歌い、踊り明かす。正月歌の歌詞に;
♪白髪年寄りや、床の前にいせて/生し子歌しめて、孫や踊ら
(白髪の年寄りを、床の前に座らせ/子がうたって、孫が踊る)
とあるように、子や孫、身内や参列者が歌・踊りを途絶えることなく出し合う。それが祝いの内実を形造る。そのシマ(集落)が持っている芸能の全体像がみわたせる、貴重な機会でもあるのだ。
映像
①1987/8/8 手々(てて)の米寿
《正月歌》で座開き。夏の暑いさなか男女いずまいを正し、集団で交互に掛け合う。「屋敷内の神よ、どうか守ってください、手摺り拝みます」と荘重に始まり、家誉(いえぼ)めや祝いのめでたい文句を8節まで掛け合ったのち、歌あしびのくだけた歌詞に転じ、テンポを速めて16節まで。
②1988/1/4 井之川の古稀;《正月歌》《井之朝花》《意見(十番)口説》・・・』
儀礼の「座開き」としては、太鼓付きの《正月歌》をうたってから三味線付の《井之朝花》を奏する。徳之島では《正月歌》がよりベーシックな祝い歌であることがわかる。ここでは祝いや正月の歌詞ののち、男女のあそびの歌詞を掛け合って、テンポをあげて22節まで。《井之朝花》の奏者、作江米房は民謡大観掲載の前田政為がお手本とした古老。
③1987/1/2 東目手久(めてぐ)、85歳の年祝い;ナンコ、《御前風》《意見口説》《上り口説》《鳩間節》
《かまやしな節》《ワイド節》《六調》』
ナンコ(箸戦)は、割り箸を3つに折って手に持つ。二人向き合って任意の本数を右手に隠して出し、両者の数を言い当てる。負けたら酒を飲ませ、次の二人にまわす。祝いの開始前に段々座が賑わっていくのである。この祝いの最後に、祝われる85歳の妹と、88歳の姉が二人並んで六調の手踊りで客に挨拶すると、すかさず、
♪立てば芍薬、座れば牡丹・・・と誉め称えられていた姿がひときわ印象的だった。
④1988/1/2 東目手久、85歳の年祝い;『親族あいさつ、乾杯、ナンコ、祝舞、《御前風》《六調》/日舞、孫の民謡、カラオケ、*《意見口説》/《オハラ節》《河内音頭》《ワイド節》、戦前のはやり歌の八月踊り風メドレー、《ドンドン節》、男女対抗歌合戦《まんかい玉》《正月歌》』
*隣の佐弁集落の盛重豊が、《まんかい玉》をうたって祝いの当事者に挨拶した後、ハヤシ付意見口説の得意芸を披露。《意見口説》は《十番口説》ともいい、元々は沖縄からの移入曲。一番から十番まで、まずは命が大切、に始まり、侍、百姓、夫婦、世間の付き合い、長寿や人生の終末までの心得を説いていく。この歌のとおりにすれば間違いない人生が送れる、ということで、年祝いでは必ずうたわれる。大切にうたい継がれてきた曲なのだが、徳之島独特のスタイルとして、4番以後こっけいなハヤシを長々と入れて、この真面目な人生訓を笑いのめしてしまう。《口説》は他にも徳之島で沢山の歌詞が生み出された。後日まとめて聴いてみたい。
さて中締めの後も延々と(歌・踊りの)あしびは続く。昭和29年当時の青年団がそろい、青春の日々にかえって戦前のはやり歌をメドレーで、八月踊り風にうたい踊る。
♪明日はお発ちか(チャンチャララン・・・)、♪今じゃ世界の大東京、♪馬車はゆくゆく(チャンチャンチャチャラリコ・・・)、♪柱時計に目をさまし、など、テンポをあげてうち興じる。当時は復帰直後で何もないなか、自分たちで芸能を作り出して楽しんだ。ある意味クリエイティブな時代だったといえよう。
最後は男女に分かれての歌合戦となるが、男は酔っぱらって歌詞もしどろもどろ、「女性軍の勝ち」で終わる。
*踊ってみましょう;ドンドン節
~~時間がきてしまい、あわただしく終了。また踊ってみましょう~~
<参考文献・CD>
恵原義盛 1973『奄美生活誌』木耳社
酒井正子 1996『奄美歌掛けのディアローグ』第一書房
島尾敏雄 1966「シマの正月」『島にて』冬樹社
深沢秀夫 1981「シマ社会に於ける共食慣行-奄美の三献と一重一瓶を手掛かりに-」 『南島史学』17,18合併号
松山光秀 2004『徳之島の民俗[1] シマのこころ』未来社
他
(文責:酒井正子)
2015/3/11(水)18:30~21:00@法政大学BT0805教室
『民謡大観』第II部「儀礼・行事・祝い」より <正月の年祝いと祝い歌>
旧正月(今年は2/19)の頃、沖縄、奄美の知人から年賀状などいただくと、旧正未だ健在なり、と感ずる。この時期には「節田まんかい」をはじめ旧正月のあしび(歌・踊りを楽しむ機会)や行事が、奄美各地でおこなわれている。第7~8回は、正月に盛大におこなわれる年祝いと祝い歌をとりあげる。
年祝い(沖縄では生年祝い)とは、生まれ年のエトが一巡する数えの13、25、37、49、61、73、85、97歳の最初のトシビ(エトの日)に、生命力の増強を願って行う祝い。トシ日は、肉体に宿る霊魂が最も不安定な状況におかれる日[松山光秀]とされる。
初めてのエトの年にあたる13歳は、女子はかつては生家での最後の祝いであるとして、晴れ着とサンゴンで盛大に祝った。61歳(還暦)からは長寿を祝うが、平均寿命が延びた近年では、73歳(古稀)以降が盛大である。エトのサイクル以外では88歳(米寿)を8月8日に、99歳を9月9日におこなっている。
本土の長寿祝いは一般に、還暦(60歳)、古稀(70歳)、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、卒寿(90歳)、白寿(99歳)とされるが、奄美では12年周期のエトのサイクルが基本にある。
*表記例;歌唱形式(実際のうたわれ方)はabcd・・・ハヤシ詞(ことば)。abcdは各々歌詞の第1、2、3、4句をあらわす。/《 》は曲名。
II-5 奄美大島の正月行事と徳之島の祝い歌・年祝い
1.奄美大島の正月行事補足;旧正月の現地レポートを交えて。
①正月行事概観;名瀬根瀬部(ねせぶ)など、恵原義盛・義之さんの二代にわたる調査から。
島尾[1966]があげる正月の行事習俗のうち、恵原[1973]に言及のないものについて、恵原義之さんの古老からの聞き取りによれば(資料配付)、トシトリとは、かつては正月に一つ歳を取ったことで、正月のサンゴンの席で年齢順に並んでいる子供たちに一人一人自分の歳と抱負・心情を述べさせた。あるいは大晦日にトシトリ餅を食すること。セクノイワイは「七日節句」のこと(徳之島では二日の「大工の祝い」をさす)。ヒキャゲとは、正月の終わりに飾り餅を下げて小さく刻み、練った芋にねりあわせて食すこと、カメサレとは不詳だが、瓶の酒をさらって飲み干す、一種の打ち上げのようなものではないか、またトシワスレとは年末の青年たちの忘年会をいうが、もっと別の習俗があったかもしれない。
なお関玲子さんの生まれジマ・笠利町用の正月行事素描(添付)によれば、年末の豚の屠殺、大掃除(庭に白砂を敷き詰める)、大晦日のトシトリ餅、豚骨野菜料理、明けて元旦の若水汲み、墓参、サンゴン、年始、シュンカネクヮ、歌あしび、七日雑炊、小正月のナリムチと16日の墓参などが、ていねいにおこなわれていた。
②映像 サンゴン(三献);15/2/19@ばしゃ山民俗村。恵原さん提供ビデオ(rec.久野末勝氏) 床飾り、ナンコの台~干支の口上~一の椀(餅など)~刺身(海のもの)~二の椀(肉など山のもの)、盛塩(むいしゆ)(するめと昆布を塩にまぶしていただく)、盃事と挨拶。
③映像 ナンカンジョセ(七草雑炊);数え7歳の子が、七軒の家をまわって雑炊をいただき成長を願う。89小川学夫・柴田南雄 Etv8「いまに残る民謡の原像 ① 奄美島歌考」より、笠利町佐仁 泊忠重《朝花》《行きゅんにゃ加那》《六調》
④旧正月ぅわんふね(豚骨料理)ツアー報告;末岡三穂子さん
年越しに欠かせない料理で、根瀬部では正月前の共同作業としておこなわれた。大和村国直のNPO法人TAMASU(タマス=取り分、利益の均等配分の意味)が、今年初めてツアーを開催。傾斜地に自生するツバシャ(つわぶき)採取から始まり、清水でさらしてアク抜きし、筋をとって豚骨・大根と一緒に煮込み美しい仕上がり。根瀬部では清流に各家のチバサ(ツバシャ)を入れたザルが並び、早く来た人ほど上流に置いてきれいな水にさらしたという。
⑤年祝い;旧正月前後は同級生のつどいが盛んで、例えば笠利では、今年は2/19が旧正月にあたるため、2/20(金)に「笠利中・還暦祝い」と「赤木名中・古稀の祝い」、翌21(土)は、「笠利中・古稀の祝い」と「赤木名中・還暦の祝い」があった(関さんによる)。
2.徳之島の祝い歌;民謡大観掲載曲より
・《まんかい玉》 ♪abc<ハ>d c<ハ>d
由来不明の古謡で、祝い付け、三十三年忌、正月、《口説》のシメにうたわれ、多彩な性格を持つ。音源は聞けなかったが、映像には登場。いずれじっくり聴いてみたい。
・《正月歌》(井之川、浅間) ♪abcdヨンノcdヨンノ スラヨイヨイ
*ヨンナ系ハヤシ詞・下句反復の、儀礼的な祝付け系統に近い形式。
・《井之朝花》(井之川のシマ朝花) ♪abcd
徳之島の朝花は8886音の琉歌調4句体定型詞をうたう。井之川では祝い付けとして、儀礼の開始にうたわれる。
3.徳之島の年祝い;酒井映像資料
祝いでは一族近隣を招き、徹底して歌い、踊り明かす。正月歌の歌詞に;
♪白髪年寄りや、床の前にいせて/生し子歌しめて、孫や踊ら
(白髪の年寄りを、床の前に座らせ/子がうたって、孫が踊る)
とあるように、子や孫、身内や参列者が歌・踊りを途絶えることなく出し合う。それが祝いの内実を形造る。そのシマ(集落)が持っている芸能の全体像がみわたせる、貴重な機会でもあるのだ。
映像
①1987/8/8 手々(てて)の米寿
《正月歌》で座開き。夏の暑いさなか男女いずまいを正し、集団で交互に掛け合う。「屋敷内の神よ、どうか守ってください、手摺り拝みます」と荘重に始まり、家誉(いえぼ)めや祝いのめでたい文句を8節まで掛け合ったのち、歌あしびのくだけた歌詞に転じ、テンポを速めて16節まで。
②1988/1/4 井之川の古稀;《正月歌》《井之朝花》《意見(十番)口説》・・・』
儀礼の「座開き」としては、太鼓付きの《正月歌》をうたってから三味線付の《井之朝花》を奏する。徳之島では《正月歌》がよりベーシックな祝い歌であることがわかる。ここでは祝いや正月の歌詞ののち、男女のあそびの歌詞を掛け合って、テンポをあげて22節まで。《井之朝花》の奏者、作江米房は民謡大観掲載の前田政為がお手本とした古老。
③1987/1/2 東目手久(めてぐ)、85歳の年祝い;ナンコ、《御前風》《意見口説》《上り口説》《鳩間節》
《かまやしな節》《ワイド節》《六調》』
ナンコ(箸戦)は、割り箸を3つに折って手に持つ。二人向き合って任意の本数を右手に隠して出し、両者の数を言い当てる。負けたら酒を飲ませ、次の二人にまわす。祝いの開始前に段々座が賑わっていくのである。この祝いの最後に、祝われる85歳の妹と、88歳の姉が二人並んで六調の手踊りで客に挨拶すると、すかさず、
♪立てば芍薬、座れば牡丹・・・と誉め称えられていた姿がひときわ印象的だった。
④1988/1/2 東目手久、85歳の年祝い;『親族あいさつ、乾杯、ナンコ、祝舞、《御前風》《六調》/日舞、孫の民謡、カラオケ、*《意見口説》/《オハラ節》《河内音頭》《ワイド節》、戦前のはやり歌の八月踊り風メドレー、《ドンドン節》、男女対抗歌合戦《まんかい玉》《正月歌》』
*隣の佐弁集落の盛重豊が、《まんかい玉》をうたって祝いの当事者に挨拶した後、ハヤシ付意見口説の得意芸を披露。《意見口説》は《十番口説》ともいい、元々は沖縄からの移入曲。一番から十番まで、まずは命が大切、に始まり、侍、百姓、夫婦、世間の付き合い、長寿や人生の終末までの心得を説いていく。この歌のとおりにすれば間違いない人生が送れる、ということで、年祝いでは必ずうたわれる。大切にうたい継がれてきた曲なのだが、徳之島独特のスタイルとして、4番以後こっけいなハヤシを長々と入れて、この真面目な人生訓を笑いのめしてしまう。《口説》は他にも徳之島で沢山の歌詞が生み出された。後日まとめて聴いてみたい。
さて中締めの後も延々と(歌・踊りの)あしびは続く。昭和29年当時の青年団がそろい、青春の日々にかえって戦前のはやり歌をメドレーで、八月踊り風にうたい踊る。
♪明日はお発ちか(チャンチャララン・・・)、♪今じゃ世界の大東京、♪馬車はゆくゆく(チャンチャンチャチャラリコ・・・)、♪柱時計に目をさまし、など、テンポをあげてうち興じる。当時は復帰直後で何もないなか、自分たちで芸能を作り出して楽しんだ。ある意味クリエイティブな時代だったといえよう。
最後は男女に分かれての歌合戦となるが、男は酔っぱらって歌詞もしどろもどろ、「女性軍の勝ち」で終わる。
*踊ってみましょう;ドンドン節
~~時間がきてしまい、あわただしく終了。また踊ってみましょう~~
<参考文献・CD>
恵原義盛 1973『奄美生活誌』木耳社
酒井正子 1996『奄美歌掛けのディアローグ』第一書房
島尾敏雄 1966「シマの正月」『島にて』冬樹社
深沢秀夫 1981「シマ社会に於ける共食慣行-奄美の三献と一重一瓶を手掛かりに-」 『南島史学』17,18合併号
松山光秀 2004『徳之島の民俗[1] シマのこころ』未来社
他
(文責:酒井正子)
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