第十回;「うずらの母~イトゥ」報告&補足
- 2015/06/20
- 15:28
奄美シマウタ研究会 プログラム アーカイヴ
2015.06.10(水)18:30~21:00@法政大学BT0803教室
*は注、酒井コメント。【 】は民謡大観の曲番号
第十回;「うずらの母~イトゥ」報告&補足
1.宮古と奄美をつなぐ伝承「うずらの母」(続)
1)【宮古篇5】鶉の母(うっじゃがんま) 多良間村仲筋、1984
野焼きの火が迫る中、父鶉はさっさと逃げるが、▽母鶉は卵のそばを離れない。その美しい姿を千鳥が讃えて鳴く。
*わらべ歌として、「足選び・鬼決め(クイトゥクイトゥ、ギーツガギーツ」のあそびなどしながらうたう。▽以後の展開は、以下2)3)では異なる。なお鶉は、耕作地帯の草むらに巣を作る。焼畑や刈り取り後の畑に火を入れることは、よくおこなわれた。
2)【宮古篇2】鶉のユガタイ 平良市西原、1984
・・・▽母鶉は周囲の草を鎌で刈るなど奮闘し、卵を守る。無事3羽孵化し、名付けて楽しく暮らしているところに、父鶉が帰る。再び家族に入れてくれと頼み、酒を持参して許され、よりを戻す。
*昔話として池閒系集落(池閒島、西原、佐良浜)で子供等に語る。下線部は、鎌が現れる、火が遠ざかるよう祈る、4~5羽だったりするなど、異伝あり。また持参した酒代の払いをどうするか、母鶉が問い詰め、父鶉はこれからは父として家族をしっかり守る、と決意したという場面も。
3)奄美大島笠利町用の「うずらんめ」(S2茂野幽考記録)。
・・・▽母鶉は、卵から孵ったばかりの雛を、両脇に抱いて守るがみな焼け死ぬ。父鶉は現場に戻って花や水を手向け、せめて夢にみせてくれと供養。母鶉は、死して後もなお雨は私の涙、風は私の息と思え、と嘆く。
・焼死した姿(尾は曲げ、足は直)がリアルに描かれ、哀れをさそう。母性愛に涙する。
・父鶉の供養(花と水を手向ける)と、母鶉の恨み(死後三日間は雨風にしたが気づいた か・・・)が具体的に描かれる。
4)失われた歌を求めて;ウタシャ・築地俊造の創作(♪1995/10/20@ジァンジァン「別れ歌」、2015年5月に再録。関玲子さん提供)。
・テキストは、池野無風を基本に、変更を加える。茂野[1927]に無い部分は、父鶉の「二 人で逃げれば子はまたできる」「七谷廻って七水掛け、七尾根登って七花活け」のくだりで、おそらく文[1932]からとり入れたのではないか。
・フシは、用の老女の「口説風だった」という記憶をもとに、徳之島の口説(くどき)に のせ、クライマックスに口説バヤシを組み込む。沖縄の糸数カメのハヤシが感動的だったため、いつかあのようにやろうと考えていた。
5)考察;宮古とは異なる悲劇的結末について
・本土から南下したと思われる仏教的な無常観(もののあわれ)が、奄美までは保持され ているが、宮古までくると、アララガマ精神(何くそやってみせるぞ)の高揚へと変わっていったのではないか[佐渡山]。
・本土ではなく、琉球弧の念仏歌の影響か?;3、5、7など数の象徴、左右・雨風など の対句表現、供養の仕方など[酒井1996]。それにしても「鶉の母」のモチーフの発祥
はどこなのか、本土には類話はないといわれる。
・奄美島唄の、ここ50年の変化;とくに悲劇的表現で、感情移入の密度が濃くなってい る。こうした叙情の質の変化は、現在も進行中[小川2011]。 *悲しい歌は、ますます悲しく。この傾向は、昭和初期にすでにあったかどうか?
<フリート-ク>
・奄美の話は悲しくなる傾向があるのではないか。同じような話が沖縄と奄美にあると、 沖縄のほうは楽観的だが、奄美の話は暗くなることがある。
・琉球弧に生息する鶉は、「ミフウズラ」といい、「繁殖形態は一妻多夫で、4~8月ごろに地上に枯れ葉などで巣をつくり、雄が抱卵や育雛を行う」(奄美野鳥の会)。そうする と、雛を抱いて焼け死んだのは、実は雄だったかもしれない。往時そうした習性は果たして知られていたのだろうか、民俗知識としてあったかもしれない。実態はともかく、人間に喩えた話であり、やはり母鶉でよいのではないか、等々、話題は尽きなかった。
2.イトゥ(作業歌)から島唄へ(III-1)奄美大島のイトゥとイトゥ節
イトゥは島唄(三味線付あそび歌)の重要な源流の一つ。奄美にはかけ声主体のイトゥが沢山あり、特徴的なジャンルを形成している。よく知られた《イトゥ節》の他に、実に豊富なメロディーがあることに驚かされる。
「歌は仕事の手を進め、話は仕事の手を止める」といわれるように、共同作業のリズムをそろえ、一日中続く作業の辛さを紛らせ能率を高める目的があった。「うたいながら作業すれば、一つも疲れを感じない」とはよく言われることである。さらには海の神に無事を祈ったり、木を切り出す際に山の神のたたりを祓うなど、呪言的な意味合いもあった。
豊かな旋律の宝庫であるが、共同労働(ユイワク)や手作業の機会が少なくなり、作業現場でうたわれることは殆どなくなった。
1)【250】舟だしイトゥ 笠利町用、伊集院リキ、1981;舟が出発する際の歌。
2)【251】堀りされイトゥ 同上 ;田畑を掘り起こしたり、耕したりする時の歌。
3)【252】荒地打ちイトゥ 笠利町宇宿、1987;焼き畑など、荒れ地の開墾の際。
4)【253】舟漕ぎイトゥ 同上 ;手を揃え、志気を高める/航海安全祈願。
5)【254】土固め 龍郷町秋名、山田武丸他、1986;地搗きや林道造成の際。
6)【255】土運びイトゥ 同上;堤防、道路補修などもっこで土を運ぶ時の歌
7)【258】一二の三じゃ 瀬戸内町篠川、1986;土捨ての作業で、調子を合わせた。
8)【259】やんまぼー(木伐(き)りイトゥ)同上;丸太を枕木用の角材にする/身を祓う
9)【260】まさりこ 瀬戸内町諸鈍、1986;キビ畑の草取り、耕作時に。
10)【256】田の草取りイトゥ 宇検村湯湾 貞野ツ子(ね)キク、1986;かけ声のほか4句体の共通歌詞を掛け合う。
♪いつ夜が暮れて、自由になれるだろう/夜の暮れを待ちながら、寄り合いを待つ/寄り合いの後は、加那(恋人)を待つ/加那待ちの後は、夜話をする/その後はまた、浮き世話/・・・というように、1首の半分の2句づつで掛け合いが進展し、歌の流れが作られていく。大島全域にあり、舟漕ぎ、荒地打ち等でも同じフシがうたわれる。
11)【257】田の草取りイトゥ 宇検村芦検 田春美津子他、1982; 同上
*以上決まったイトゥのフシでなくとも、《糸繰り節》などなじみの民謡を、一日中でも歌い継いでいったという。名瀬港の沖仲仕が荷物の積み下ろしをしながら♪ヤンゴの姉さん、腰巻き上等、とからかってうたうイトゥもよく知られている。そんなオトシタ歌をうたうと楽しくなって、元気が出るのだという。
3.《イトゥ節》の誕生
瀬戸内町古志出身の歌者・勝島徳郎が、1973年のレコーディングの際、ほとんどうたわれてない「田の草取りイトゥ」をサンシンにのせて復活。以後広く親しまれるようになった。
1)LP「勝島徳郎傑作集」セントラル楽器、1973
2)「島語れ CD1」JABARA、2009
*1981年、古仁屋小学校体育館での生き生きとしたライブ。
♪うたってみましょう;イトゥ節
参考文献・CD
池野無風 1983『奄美島唄集成;池野無風遺稿集』道の島社 *1900生~1971没
小川学夫「奄美における仕事歌起源のシマウタ(改訂版)」Web版「奄美民謡誌<初
稿・増補・改訂稿>」 (奄美民謡誌で検索)
---- 2011「奄美の歌掛け」『歌の起源を探る 歌垣』三弥井書店
文(かざり) 潮光 1933(復刻1983)『奄美大島民謡大観』自家版
酒井正子 1996『奄美歌掛けのディアローグ』第一書房
佐渡山正吉 1975「民話がつづる宮古のこころ」『月刊 青い海』10月号
茂野幽考 1927『奄美大島民族誌』(1974『日本民俗誌体系 V1』角川書店 に所収)
<参考>
《うづらんめ》 詞・歌 築地俊造 95/10/20ライブ@渋谷ジァンジァン
1mあがれ(東)見ればん エ~野焼き
いりぃ(西)見ればん エ~野焼き
でぃ 飛ぼ飛ぼや めんどりくゎ
fわんや飛ばらんど おんどりめぇ 私は飛べません、雄鳥よ
mわったりさえ飛べば 子(くゎ)や又なしゅり 我ら二人さえ飛べば、子は又できる
くゎんきゃや 捨てぃてぃ 子供らは捨てて、
でぃ飛ぼ めんどりくゎ さあ飛びましょう、雌鳥よ
fなみや飛べば 飛でいきよ
わんやなしゃる子と 一道(ちゅみち)なりゅん(一緒に死にます)
2f一道なりゅん
五つなりゅん子(くゎ)ぬ きもちゃげさ(可哀想)
三つなりゅん子ぬ きもちゃげさ
右脇みりば すだ子(くゎ)ぬ鳴ちゅり 右脇をみれば、孵った子が鳴いている
左脇みりば 弟(うとぅとぅ)ぬ鳴しゅり 左脇をみれば、その弟が鳴いている
うれ 投げ捨てて 飛びぬなりゅみぃ
なみ(汝)や 飛ぼち思(うめ)ば 飛でいきよ
3[口説バヤシ調で] ハゲハゲ 七さく(谷)七山 越えて 飛だんぬ
二度あと戻て ふりけて(振り返って)見れば 野原やハラハラ
けぶし(煙)の まやがり(舞い上がり)さめて後らが 振り返(け)て見りば
きもちゃげ親子や 尾(ずぶ)や曲げて 脛(はぎ)や 直(す)しまま
親抱き子抱き あわれ 妻子(とぅじくゎ)ぬ 情ぬ清らさよ
4m情ぬ清らさ
七さく廻て 水もらて 七谷巡って 水をもらい
七山のぼて 花とめて 七山登って 花を求め
そなえて おしぃらば 許したぼれ 供えて差し上げるので 許して下さい
わんもあとらが 一道なりゅん* 私も後から 一緒に死にます
*男があまり薄情すぎるので、最後の一節、後から弁護するため付け加えたという。
(文責 酒井)
2015.06.10(水)18:30~21:00@法政大学BT0803教室
*は注、酒井コメント。【 】は民謡大観の曲番号
第十回;「うずらの母~イトゥ」報告&補足
1.宮古と奄美をつなぐ伝承「うずらの母」(続)
1)【宮古篇5】鶉の母(うっじゃがんま) 多良間村仲筋、1984
野焼きの火が迫る中、父鶉はさっさと逃げるが、▽母鶉は卵のそばを離れない。その美しい姿を千鳥が讃えて鳴く。
*わらべ歌として、「足選び・鬼決め(クイトゥクイトゥ、ギーツガギーツ」のあそびなどしながらうたう。▽以後の展開は、以下2)3)では異なる。なお鶉は、耕作地帯の草むらに巣を作る。焼畑や刈り取り後の畑に火を入れることは、よくおこなわれた。
2)【宮古篇2】鶉のユガタイ 平良市西原、1984
・・・▽母鶉は周囲の草を鎌で刈るなど奮闘し、卵を守る。無事3羽孵化し、名付けて楽しく暮らしているところに、父鶉が帰る。再び家族に入れてくれと頼み、酒を持参して許され、よりを戻す。
*昔話として池閒系集落(池閒島、西原、佐良浜)で子供等に語る。下線部は、鎌が現れる、火が遠ざかるよう祈る、4~5羽だったりするなど、異伝あり。また持参した酒代の払いをどうするか、母鶉が問い詰め、父鶉はこれからは父として家族をしっかり守る、と決意したという場面も。
3)奄美大島笠利町用の「うずらんめ」(S2茂野幽考記録)。
・・・▽母鶉は、卵から孵ったばかりの雛を、両脇に抱いて守るがみな焼け死ぬ。父鶉は現場に戻って花や水を手向け、せめて夢にみせてくれと供養。母鶉は、死して後もなお雨は私の涙、風は私の息と思え、と嘆く。
・焼死した姿(尾は曲げ、足は直)がリアルに描かれ、哀れをさそう。母性愛に涙する。
・父鶉の供養(花と水を手向ける)と、母鶉の恨み(死後三日間は雨風にしたが気づいた か・・・)が具体的に描かれる。
4)失われた歌を求めて;ウタシャ・築地俊造の創作(♪1995/10/20@ジァンジァン「別れ歌」、2015年5月に再録。関玲子さん提供)。
・テキストは、池野無風を基本に、変更を加える。茂野[1927]に無い部分は、父鶉の「二 人で逃げれば子はまたできる」「七谷廻って七水掛け、七尾根登って七花活け」のくだりで、おそらく文[1932]からとり入れたのではないか。
・フシは、用の老女の「口説風だった」という記憶をもとに、徳之島の口説(くどき)に のせ、クライマックスに口説バヤシを組み込む。沖縄の糸数カメのハヤシが感動的だったため、いつかあのようにやろうと考えていた。
5)考察;宮古とは異なる悲劇的結末について
・本土から南下したと思われる仏教的な無常観(もののあわれ)が、奄美までは保持され ているが、宮古までくると、アララガマ精神(何くそやってみせるぞ)の高揚へと変わっていったのではないか[佐渡山]。
・本土ではなく、琉球弧の念仏歌の影響か?;3、5、7など数の象徴、左右・雨風など の対句表現、供養の仕方など[酒井1996]。それにしても「鶉の母」のモチーフの発祥
はどこなのか、本土には類話はないといわれる。
・奄美島唄の、ここ50年の変化;とくに悲劇的表現で、感情移入の密度が濃くなってい る。こうした叙情の質の変化は、現在も進行中[小川2011]。 *悲しい歌は、ますます悲しく。この傾向は、昭和初期にすでにあったかどうか?
<フリート-ク>
・奄美の話は悲しくなる傾向があるのではないか。同じような話が沖縄と奄美にあると、 沖縄のほうは楽観的だが、奄美の話は暗くなることがある。
・琉球弧に生息する鶉は、「ミフウズラ」といい、「繁殖形態は一妻多夫で、4~8月ごろに地上に枯れ葉などで巣をつくり、雄が抱卵や育雛を行う」(奄美野鳥の会)。そうする と、雛を抱いて焼け死んだのは、実は雄だったかもしれない。往時そうした習性は果たして知られていたのだろうか、民俗知識としてあったかもしれない。実態はともかく、人間に喩えた話であり、やはり母鶉でよいのではないか、等々、話題は尽きなかった。
2.イトゥ(作業歌)から島唄へ(III-1)奄美大島のイトゥとイトゥ節
イトゥは島唄(三味線付あそび歌)の重要な源流の一つ。奄美にはかけ声主体のイトゥが沢山あり、特徴的なジャンルを形成している。よく知られた《イトゥ節》の他に、実に豊富なメロディーがあることに驚かされる。
「歌は仕事の手を進め、話は仕事の手を止める」といわれるように、共同作業のリズムをそろえ、一日中続く作業の辛さを紛らせ能率を高める目的があった。「うたいながら作業すれば、一つも疲れを感じない」とはよく言われることである。さらには海の神に無事を祈ったり、木を切り出す際に山の神のたたりを祓うなど、呪言的な意味合いもあった。
豊かな旋律の宝庫であるが、共同労働(ユイワク)や手作業の機会が少なくなり、作業現場でうたわれることは殆どなくなった。
1)【250】舟だしイトゥ 笠利町用、伊集院リキ、1981;舟が出発する際の歌。
2)【251】堀りされイトゥ 同上 ;田畑を掘り起こしたり、耕したりする時の歌。
3)【252】荒地打ちイトゥ 笠利町宇宿、1987;焼き畑など、荒れ地の開墾の際。
4)【253】舟漕ぎイトゥ 同上 ;手を揃え、志気を高める/航海安全祈願。
5)【254】土固め 龍郷町秋名、山田武丸他、1986;地搗きや林道造成の際。
6)【255】土運びイトゥ 同上;堤防、道路補修などもっこで土を運ぶ時の歌
7)【258】一二の三じゃ 瀬戸内町篠川、1986;土捨ての作業で、調子を合わせた。
8)【259】やんまぼー(木伐(き)りイトゥ)同上;丸太を枕木用の角材にする/身を祓う
9)【260】まさりこ 瀬戸内町諸鈍、1986;キビ畑の草取り、耕作時に。
10)【256】田の草取りイトゥ 宇検村湯湾 貞野ツ子(ね)キク、1986;かけ声のほか4句体の共通歌詞を掛け合う。
♪いつ夜が暮れて、自由になれるだろう/夜の暮れを待ちながら、寄り合いを待つ/寄り合いの後は、加那(恋人)を待つ/加那待ちの後は、夜話をする/その後はまた、浮き世話/・・・というように、1首の半分の2句づつで掛け合いが進展し、歌の流れが作られていく。大島全域にあり、舟漕ぎ、荒地打ち等でも同じフシがうたわれる。
11)【257】田の草取りイトゥ 宇検村芦検 田春美津子他、1982; 同上
*以上決まったイトゥのフシでなくとも、《糸繰り節》などなじみの民謡を、一日中でも歌い継いでいったという。名瀬港の沖仲仕が荷物の積み下ろしをしながら♪ヤンゴの姉さん、腰巻き上等、とからかってうたうイトゥもよく知られている。そんなオトシタ歌をうたうと楽しくなって、元気が出るのだという。
3.《イトゥ節》の誕生
瀬戸内町古志出身の歌者・勝島徳郎が、1973年のレコーディングの際、ほとんどうたわれてない「田の草取りイトゥ」をサンシンにのせて復活。以後広く親しまれるようになった。
1)LP「勝島徳郎傑作集」セントラル楽器、1973
2)「島語れ CD1」JABARA、2009
*1981年、古仁屋小学校体育館での生き生きとしたライブ。
♪うたってみましょう;イトゥ節
参考文献・CD
池野無風 1983『奄美島唄集成;池野無風遺稿集』道の島社 *1900生~1971没
小川学夫「奄美における仕事歌起源のシマウタ(改訂版)」Web版「奄美民謡誌<初
稿・増補・改訂稿>」 (奄美民謡誌で検索)
---- 2011「奄美の歌掛け」『歌の起源を探る 歌垣』三弥井書店
文(かざり) 潮光 1933(復刻1983)『奄美大島民謡大観』自家版
酒井正子 1996『奄美歌掛けのディアローグ』第一書房
佐渡山正吉 1975「民話がつづる宮古のこころ」『月刊 青い海』10月号
茂野幽考 1927『奄美大島民族誌』(1974『日本民俗誌体系 V1』角川書店 に所収)
<参考>
《うづらんめ》 詞・歌 築地俊造 95/10/20ライブ@渋谷ジァンジァン
1mあがれ(東)見ればん エ~野焼き
いりぃ(西)見ればん エ~野焼き
でぃ 飛ぼ飛ぼや めんどりくゎ
fわんや飛ばらんど おんどりめぇ 私は飛べません、雄鳥よ
mわったりさえ飛べば 子(くゎ)や又なしゅり 我ら二人さえ飛べば、子は又できる
くゎんきゃや 捨てぃてぃ 子供らは捨てて、
でぃ飛ぼ めんどりくゎ さあ飛びましょう、雌鳥よ
fなみや飛べば 飛でいきよ
わんやなしゃる子と 一道(ちゅみち)なりゅん(一緒に死にます)
2f一道なりゅん
五つなりゅん子(くゎ)ぬ きもちゃげさ(可哀想)
三つなりゅん子ぬ きもちゃげさ
右脇みりば すだ子(くゎ)ぬ鳴ちゅり 右脇をみれば、孵った子が鳴いている
左脇みりば 弟(うとぅとぅ)ぬ鳴しゅり 左脇をみれば、その弟が鳴いている
うれ 投げ捨てて 飛びぬなりゅみぃ
なみ(汝)や 飛ぼち思(うめ)ば 飛でいきよ
3[口説バヤシ調で] ハゲハゲ 七さく(谷)七山 越えて 飛だんぬ
二度あと戻て ふりけて(振り返って)見れば 野原やハラハラ
けぶし(煙)の まやがり(舞い上がり)さめて後らが 振り返(け)て見りば
きもちゃげ親子や 尾(ずぶ)や曲げて 脛(はぎ)や 直(す)しまま
親抱き子抱き あわれ 妻子(とぅじくゎ)ぬ 情ぬ清らさよ
4m情ぬ清らさ
七さく廻て 水もらて 七谷巡って 水をもらい
七山のぼて 花とめて 七山登って 花を求め
そなえて おしぃらば 許したぼれ 供えて差し上げるので 許して下さい
わんもあとらが 一道なりゅん* 私も後から 一緒に死にます
*男があまり薄情すぎるので、最後の一節、後から弁護するため付け加えたという。
(文責 酒井)
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